シーホークとの別れ

こんな場面に遭遇するとは思いもよらなかった。2014年3月20日、この日シーホークは1回だけ甑島に向かった。最後の航海であった。

140320sato  自分は、2匹の犬を連れてフェリーで川内に向かっていた。2階の甲板だった。

フェリーが里港の岸壁を離れる様子を眺めていると、幼稚園児が並び、テープが用意され、たくさんの人々が集まっていた。

明らかにいつもとは違っていた。沖に目をやると、遠くに赤い船体のシーホークの姿があった。里港では、シーホークとの別れのセレモニーが行われようとしていた。

フェリーが港を出て次第に離れていくに従い、港に向かうシーホークがどんどん近づいてきたが、お互いの距離が思うように縮まらない。何人かが最後のシーホークを写真に収めようと甲板を動き回っていた。一瞬訪れたチャンスを逃すまいと、自分も夢中になっていた。

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平成19年に85歳で亡くなった親父の自慢の一つが、村長をしていた現役時代に熱海と伊豆大島の間を走っていたシーホークを甑島航路に持ってきたことだった。
伊豆大島は甑島と異なり太平洋のうねりをまともに受ける。波と波の間の距離が大きく、シーホークが巧く波に乗れないらしく、新しい船を造ることになっていた。
そんな事情が、中古であったが高速船を甑島航路で走らせることができた大きな理由であった。1980年のことであった。

シーホークは三菱重工業が建造しているが、会社の方々を自宅に招待してキビナゴのしゃぶしゃぶでもてなしたという話も良く聞いた。

当時は甑島の4村の仲がとても良かった。だから、本土から一番遠い手打港と串木野港の直行便も実現した。恵まれていない地域に便利な上甑島の方々が理解を示してくれたからだった。
合併して独立した機関がなくなったせいかもしれないが、最近自分のこと、自分の地域のことしか考えない住民が増えているような気がしてならない。
この日は朝から強風が吹いていた。フェリーもシーホークも2便は欠航となった。
シーホークはこれが最後の航海であった。kan

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