内川内地区の今昔2

内川内小学校学年など記憶は定かでないが、小学生の時に遠足で内川内に行ったことがある。自衛隊基地の隊舎の横を通る時、色とりどりのアキカンが山積みになっているのを鮮明に覚えている。子供心に宝物に思えたからだろう。

遠足の目的地は内川内小学校で、今のコミュニティセンターと製茶工場がある場所である。小学校から見る中学校の校舎は遙か彼方にあった。小学校は明治21年に長浜から先生を雇い、数人に読書や珠算などを教え始めたのが始まりだといわれる。終戦前の昭和19年には75名の児童がいた。内川内現在

内川内中学校は戦後の昭和25年4月からお寺で授業を始め、校舎は翌年の11月に帽子山の近くに完成した。生徒はこのとき35名いて、家から約20分かけて通った。

中学校の校舎を建てるときも、昭和28年に小学校の建物を建て替えたときも、大人も子供も村中総出で海岸から材木や砂利や砂を運んだ。

内川内中学校
重い資材を抱えて急な傾斜の「浜道」を何度も登ったのだから、大変な苦労だったと思われる。当時は家族や地域に対する熱い思いが満ち溢れていたのだろう。小学校の校舎が落成したとき、片野浦出身の大毛直幹氏がその時の思いを数え歌にして残しておられ、今日まで歌い継がれている。

学校が閉校になったのは昭和53年の3月で、小学校の児童が2名、中学生が10名に減少していた。昭和52年から長浜と内川内の間をバスが通い始めたのも大きな理由であっ中学校跡た。小学校が90年、中学校が28年でその歴史に幕を閉じた。
(←当時の中学校と中学校跡)

 

学校があった当時、中学生の遠足の場所は金山海岸だったと聞いていたので、山歩きが好きな自分は一度その道を辿りたいと思い続けていて、数年前に実行した。

30分位かけて林の中の小道を下りていくと、甑島屈指の観光名所である大カブ瀬、松島が目の前に現れる。

金山海岸

高さ50~60mのこの瀬島と同じ目線で眺めるその光景は優雅であり豪壮でもある。それ以来、この景色に魅入られて時々行くようになった。この場所でいつも感動してしまうので、海岸へ下りてから見る景色は何か物足りなさを感じてしまう。
澄み切った海も荒れたときの渚もすばらしいのに。このコースの難点は登りのきつさで、妻の話では登るのに辟易して感動を忘れてしまうらしい。それでも、何とか山歩きのコースにできないかと今でも思っている。

 

山の斜面に点在する内川内の住宅は、全戸が災害危険地域に指定されている。台風の接近や集中豪雨など、災害が予想されるときは全住民が緊急避難施設に避難する。
道路は通行できなくなり孤立状態になるが、市や消防局と電話や無線で連絡を取りあいな内川内緊急避難施設がら嵐が過ぎ去るのを待つ。泊まりがけの住民同士の交流の場でもある。

内川内はその置かれた環境故、不便を強いられてきたが、幸運だったのは昭和29年11月に基地ができたことである。最初は米軍基地であったが昭和30年6月から自衛隊員が引き継ぎのため勤務するようになり、昭和33年5月に自衛隊基地となった。米軍から移管された日本で最初のレーダーサイトである。
隊舎は、標高約450mの山の峰にあり、西側のすぐ下に内川内がある。

基地ができた当初から自衛隊員は内川内地区には全面的に協力してきた。昭和30年に集落に電気を引くための工事をしたときは電柱の搬送を手伝い、12月の暮れに電気が通ったときは映写会をしてくれた。子供達で賑わっていた頃は、一緒になって運動会を盛り上げた。火災が起きたら基地の近傍火災として司令の判断で出動できるし、災害時もかけつけてくれる。まさに超高齢社会の内川内の頼みの綱となっている。

内川内買物帰り内川内の人々はよくバスを利用する。買い物に行ったり、病院へ通ったり、年金を下ろしたり、農作業のために畑に行くときも。従って、コミュニティバスが一律百円になって一番助かっているのはおそらく内川内の方々だろう。

私が先月訪れたときも、内川内へバスが到着した後、3人のおばさん達がリックを背負い両手にも荷物を持ってやって来られた。住宅へ続く集落道の降り口に腰を下ろし、私に話しかけたりお互いに話したりしながらしばらく休憩して、それぞれ分かれて自宅へ戻っていかれた。

そんな内川内の至る所で、今アジサイの花が咲き始めている。kan

内川内小学校新築落成を記念する数え歌

(昭和28年 作詞:大毛直幹)

1.
人もマタ知りたる内川内
霧やかすみに包まれて
エー海抜300近くして
お茶の産地じゃあるけれど
湿気が多いその為に
古い校舎はエー傾いたゾェー
2.
不便マタ多い内川内
戸数は僅かに70戸
エー時は昨年年の暮れ
老朽校舎の雨漏りで
勉強さすのもしのびなく
学校新築エー取りかかるゾェー
3.
皆さんご承知の海岸は
大石ごろごろ横たわる
エー船で材木(ざいぎ)は来たけれど
遙かに遠い部落まで
老いも若きも総出して
玉なす汗のエー材木上げゾェー
4.
よそには多い砂と砂利
なかでも不便な内川内
エー砂利を運ぶも浜下り
可愛いい子供の為なれば
何で苦労をいといましょう
何百回でも運びますゾェー
5.
いくらマタ小さい邑(むら)とても
団結すればやりとおす
エー小さい学童みてくれよ
僅かに五十数名で
運んだ砂や砂利の山
若い我等もエー及ばないゾェー
6.
無理を言ったり言われたり
互いに意見を持ち寄って
エー土台がすめば棟上げと
そのまたつぎとそのつぎと
やらねばならぬ最後まで
奥歯かみしめエー頑張ったゾェー
7.
七つの邑(むら)のその中で
とりわけまずしき内川内
エー起債返済苦労する
工事進行はかるため
松山までも売りとばし
区有財産エー犠牲したゾェー
8.
やったぞやったぞ最後まで
映えある今日の記念式
エー御国(みくに)あつい親心
村長さんや皆さんや
橋口組の誠心(まごころ)で
へき地に文化がエー生まれたゾェー
9.
子をもつ親よ皆さま方よ
文化の粋(すい)に浴されて
エー守りましょうよともどもに
いついつまでもいつまでも
我等のほこりと胸に秘め
不屈不倒でエー行きましょうゾェー
10.
とうとう望みもかなえられ
受けし御恩を忘れずに
エー文化郷土の建設に
部落を挙げて一丸と
毎日勤めをおこたらず
励みましょうゾェー 共々にゾェー